日本臨床心理身体運動学会


日本臨床心理身体運動学会 主催
鹿屋体育大学開学20周年記念特別シンポジウム
  【日時】 2002年2月9日(土)、10日(日)
【会場】 鹿屋体育大学 水野講堂
【実行委員長】 中島 登代子

シンポジウム1
教育現場の風景
「今、不登校が教育現場を変える」

 これまでの現場の発想は、不登校を「いかに登校できるように導くか」が中心ではなかったか。しかし、「不登校」をきっかけとして、家族もかわれば、クラスの生徒も、担任も、関わる人全てが、かわることがある。「不登校」というサインを、どのように読み解いてゆくか、現場の教師が自らの課題として考え、また立ち向かってゆこうとした時、まさに、不登校は教育現場を変える―。

 司会者 :
 指定討論者 :
 話題提供者 :
中島 登代子(鹿屋体育大学)
山中 康裕(京都大学)
鶴田 荘太(垂水南中学校)
寺地 哲郎(志布志中学校)
中村 恒代(鹿屋農業高校)
森吉 里奈(鹿屋体育大学大学院研究生)
森川 泉(三重県総合教育センター)

事例研究
「心理臨床の事例を語る」

 「事例研究」は、われわれの領域では、中心となる研究方法である。提示される一例が特殊というわけではなく、提示のされ方、語られ方の中に、普遍性にとどく記述がなければ意味をなさないのは、言うまでもないが、その記述の仕方と、物語り性を読みとる、フロアのわれわれ自身のレヴェルに応じて、いか様にも広く深く展開できるものである。「臨床の知」が個人の内なるものを育てるというのは、以上のような仕組による。
 ともあれ、「臨床学」を味わって頂きたい。

 司会者 :
 指定討論者 :

 事例提供者 :
鈴木 壯(岐阜大学)
山中 康裕(京都大学)
中島 登代子(鹿屋体育大学)
中込 四郎(筑波大学)

シンポジウム2
医療現場の風を読む
「病という身体表現の意味を考える」

 生きること、老いること、死ぬこと、そして病むこと、これらを人生の「四苦」と呼ぶが、先の三苦が逃れられないのに比べ、病は、「治癒」への道が通じている場合がある。もちろん、生きることそのものが「苦」なのであるから、病の如何にかかわらず、「苦」からは逃れるべくもないのだが、われわれあとりあえず「病」から逃れることにのみ全力を尽くす。しかし、一方でわれわれが、実は人生について問いはじめる時、「病」はまた、表現の一つとして意味をもちはじめる。特に「身体の病」は雄弁である。
 ユングは自らを「魂の医者」と呼んだが、「魂の病い」はまた身体というスクリーンに影絵のように映し出される。その物語は、まさに魂の物語なのである。ここ鹿屋に、魂の医者たちが集う。

 司会者 :
 事例提供者 :
 指定討論者 :
早稲田 勝治(わせだクリニック)
待鳥 浩司(かなまち慈友クリニック)
山中 康裕(京都大学)
岸本 寛史(静岡県立総合病院)
古屋 聡(塩山診療所)
徳留 稔(昭南病院)

シンポジウム3
体育の内なる新しい風
「臨床学が体育に生かされる時」

 なぜ今、臨床学なのか?ここにいう「臨床学」とは、もちろん、臨床医学という時のそれではない。「自然科学」と相補的な関係に位置する、「ある科学」の方法論の呼称である。言いかえれば、自然科学は「学ぶ」ことができ、「教える」ことが可能だが、「臨床学」は「自らの内なる知を育てる」―そうした分野なのだ。今、体育の中でも、少しずつ、臨床学の方法論を自らのものとしてとり入れようとする動きがある。彼らに、どのような期待があるのか、また、どう生かされているのか、現在を、そして未来を、体育学の新しい可能性に向けて、自由に語ってもらいたいと思っている。
 一方で、体育専攻生と、心理臨床の専門家としての立場でつき合っている山本氏には、彼らの心性について、また、身体性について、窺ってみたいものである。そのことは、実は、体育学が、臨床学に位置づけられる可能性につながってゆくような気がするのである。

 司会者 :
 指定討論者 :
 話題提供者 :
中込 四郎(筑波大学)
中島 登代子(鹿屋体育大学)
岡澤 祥訓(奈良教育大学)
山本 裕二(名古屋大学)
藤井 均(鐘淵科学ラグビー部)
菊本 智之(浜松大学)
山本 昌輝(立命館大学)

   




 


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